リングオブフォーチュン
運命の邂逅V



 海中に全身を埋め、懸命にミナを探す。
 ――ミナ、何処だ? 何処にいるんだ!
 正確な時間は定かではないが、陽は完全に水平線の彼方へ沈んでいて、海面も海中も闇色に染まっている。それだけでなく、彼女が飛び降りた頃から天候が怪しくなり、雨が降り注ぎ始めた。その影響からか潮流も激しくなりつつある。視界がほとんど封じられ、流されることで身体の自由も奪われる。重なる悪条件によって、彼女の捜索が困難になっていく。
 ミナは腕を負傷している。ただでさえ夜の海原という危険地帯に身投げしたというのに、片腕が使えない状態では満足に泳ぐことも叶わないだろう。発見が遅れれば溺れ死んでしまうのは必至だ。
 ――くそっ、くそくそくそぉっ!
 カインの脳裏に、妻の死に際の偶像が蘇る。ティアを救うことができなかった自分。あともう少し早く村に着いていたならば、彼女は死なずに済んだかもしれない。殺される前に助けることができたかもしれない。あの時の後悔が、カインを突き動かしていた。亡き妻と同じ容姿の少女を、今ここで救わなければならないのだと。
 ルアルの港から出航した連絡船に乗ってから、時間はかなり経過している。ほんの数キロ先には連盟のある大陸が見えているし、岩礁や岩場もいたるところにある。ミナを見つけ出せさえすれば、休ませる場所は確保できる。だから早く、彼女の姿がこの瞳に映れば――。
 ――やるしかないか。
 カインは一度上昇して海面へ顔を出し、鞘から剣を抜いて海上に掲げる。手に魔導力を集中し剣に伝導、魔導剣を発動させる。
 発動させるのは雷の魔導剣ボルトファルシオン。本来は電撃によって敵を倒す攻撃用の魔導剣だが、エネルギーを発散することで一時的に光源を生み出すことができる。剣のみが光るソードオブアイギスとは異なり、周囲を軽く照らす力がある。
 暗闇で見えないというのならば、光を作り出せばいい。カインは魔導剣を発動させたまま、再び海に潜る。
 ――ぐ、うぐっ!
 全身に強烈な痺れを感じる。極力、発動エネルギーを抑えているとはいえ、電解質の高い海水で雷の魔導剣を発動させると、自身へのダメージは免れない。だがその痛みに耐えながら、カインはミナの探索を諦めない。
 魔導剣を使ったとしても、夜の闇を照らすには物足りない。彼女を見つけるのはほぼ無理と言っても過言ではなかった。よほどの幸運が必要だったに違いない。しかし、その幸運はカインの下へ舞い降りる。魔導の光がギリギリ映し出したところに、女性のものらしき白い細腕を見つけた。
 ――いた!
 カインはその方向へ向かって泳ぐ。その腕は正真正銘、ミナのものだった。彼女の身体をその手にしっかりと掴み、抱きかかえて海面へと浮上する。
「ミナ!」
 カインは彼女の名前を呼ぶが、気を失っているのか返答はない。とにかく何処か休める場所をと周囲を一瞥する。
 カインの必死さがそうさせたのか、幸運が幸運を呼んだ。遥か昔は小さな島だったのだろう。長い歳月のうちに潮流の力によって削られて、内部が空洞になっている岩場をすぐ近くに発見した。
 ここなら波も雨露も凌げる。そう思ったカインは、ミナを抱きかかえたまま力を振り絞ってその岩場まで泳ぎ着く。彼女の身体を先に岩場へ預け、その後でカインが上がる。
「ミナ、着いたぞ。……ミナ?」
 ミナは気を失ったまま、カインの呼びかけには応じない。身体を揺すってみたものの、目を覚ます気配もない。カインは彼女の様子に異変を感じ取った。彼女の胸の辺りが上下に動いていない。
「お、おい、まさか、そんな!」
 ミナは今、呼吸をしていない。カインはそれに気づき、必死の形相になる。せっかく彼女を見つけることができたのに。このまま彼女を死なせてしまうのか。絶望でカインの顔が青ざめていく。
 ――し、死なせてたまるか!
 ミナが海に飛び込んでから、まだ数分しか経っていない。今ならまだ間に合う、彼女の息を吹き返させることができる。カインは直ちにミナに蘇生処置を施す。
 ミナの胸の中央に両手を押し当てて、心臓マッサージを始める。何度も何度も彼女の胸に手を押し付ける。そして人工呼吸をするため、彼女の首の後ろに手を回し、自分の唇を彼女のそれへと近づける。
「……」
 躊躇いがなかったわけではなかった。蘇生処置のためとはいえ、彼女の唇を奪うことになるのだ。自分もまた、亡き妻と同じ顔の少女と唇を重ねることに気が引ける。
 ――そんなこと、考えてる場合か!
 カインは頭を振りながら躊躇いを消し、彼女に口づけた。息吹が漏れないように彼女の鼻を塞ぎ、気道を確保するべく顎を上げさせる。彼女の肺まで空気が行き渡るように、力強く吐息を注ぐ。
「ふぅ、ふぅ!」
 反応がなくとも、幾度となく彼女に息吹を与え続ける。ある程度の人工呼吸を続けたら、もう一度彼女の胸に手を当てて心臓マッサージを施す。そして、また唇を重ねて息を吹き込む。動揺で自らの呼吸も乱れていたが、それでも彼女の肺へ空気を送るのをやめない。
 ――死なせたくない。息を吹き返してくれ。
 心の中で何度も願いを反芻し、心臓マッサージと人工呼吸を続けた。

 カインが蘇生処置を行ない始めて数分が経過しただろうか。ミナの顔に生気が戻り始め、確かな反応が見られた。
「う、ごほっ、げぽっ、おぇ!」
 ミナが、肺や気管に詰まっていたであろう大量の海水を吐き出しながら咳き込む。ようやく自発的に呼吸ができるようになったからか、彼女の息遣いは荒く、呼吸音が岩場の空洞内をこだまする。とりあえず息を吹き返したことで、カインは安堵した。
「う……」
 ミナがゆっくりを目を開き、カインの顔を捉える。まだ意識が混濁しているのか、目に映る男の姿をボーっと眺めていた。
「……カイン、さん?」
「ミナ、気がついたか!」
 カインはミナの肩を抱き起こして座らせる。
「あううっ!」
 苦悶の声を上げて苦しみ出すミナ。カインは彼女が腕を負傷していることを思い出し、肩から手を退ける。
「見せてくれ」
 彼女の首のスカーフを外し、右肩の具合を確かめる。見ているだけでも痛々しいくらいに、肩の付け根が赤く腫れている。二の腕を掴んで少し動かしてみて、症状を確認する。
「骨折……じゃないな。関節を外されているだけか」
 ミナの負傷が思ったよりも軽かったことで、カインは少し胸が軽い気持ちになる。できるだけ傷をつけずに拉致したかったのか、あの鬼畜な魔導士も脅しの段階で標的のミナを壊すつもりはなかったらしい。クロインフォードにとって、それほどこの少女の存在が重要なのか、今のカインには知る由もないが。
「少し痛むけど、我慢してくれよな」
 ROWの隊員として訓練を受けているカインは、外れた関節を戻す方法を熟知している。しかしそれは医学者の治療法とは異なり、かなりの荒治療だ。腕を強引に引っ張り、無理やり関節の部位を合わせる。
「っ!」
 その時の生じる激痛は、ある種の拷問に匹敵するだろう。訓練を受けている兵士ならいざ知らず、今まで平穏の中に生きていた十代の少女に耐えられるものではない。
「あぅ、ぃぃぅ、いぎ……!」
 ミナが声にならない悲鳴を上げ、目を見開いて口をパクパクさせる。骨と骨が擦れる痛み、関節の周囲の神経を刺激し、筋繊維の一部が千切れ、腱が痛めつけられる。あまりの激痛に、意識が卒倒しそうになるのを免れるので精一杯といったところだ。
「よし、入った」
「あうぅ……」
「大丈夫か?」
「大丈夫……じゃないです」
 普段なら遠慮がちに「平気です」と応えるであろう彼女も、さすがに激痛でそんな余裕はなかったらしい。
「わ、私、生きてるんですね」
 激痛のせいだろうか、ミナは完全に意識がはっきりしている様子だった。もっとも、顔は冷や汗まみれではあるが。
「しばらく動かさない方がいい」
 カインはミナのスカーフを使って、腕を吊して固定する。
「えっと、ここは……何処ですか?」
「わからん。だが泳いでる最中に連盟側の大陸が見えていたから、大陸付近にある岩場のどれかだと思う。さっきから波が激しくなって、今は外に出られそうにない。明日の朝までは、ここにいるしかないな」
 ミナが身体を震わせている。孤立した場所、閉鎖された空間にいることが恐怖となって彼女に襲い掛かっているのだろう。おまけに海水で衣服が濡れており、徐々に体温が奪われている。これから深夜になるにつれてより一層冷え込むのだから、今の状態では明日の朝までもたないかもしれない。
「とにかく身体を温めないとまずいな。何か燃える物を拾ってくる」
 ROWとして戦地を駆るカインはサバイバル経験も豊富であり、危機的状況下における生存に長けている。ここは潮流によって削れた岩場、満潮時には今いる場所は海面下になり、海から流れ着いた自然物も多い。その目論見通り、カインは空洞の先に転がっていた朽ちた木々を集めて戻った。
「とりあえず、これだけあれば服を乾かすことぐらいはできるはずだ」
「でも……火はどうするんですか?」
「心配ない」
 カインは木を組み合わせた後、鞘から剣を抜いて木々の間に差し込む。魔導力を剣に込め、魔導剣を発動させる。銀の刃がみるみるうちに灼熱のような赤へと変色し、組み敷かれた木から煙が立ち上がる。
 炎の魔導剣イグナイトブレード、本来は斬りつけた相手を焼き殺す攻撃用の魔導剣の特性を応用し、木に火をつけたのだ。
「凄い、魔導ってこんなに便利なものだったんですね。ただ、戦うためだけのものだと思ってました」
 ――ッ!
 カインの魔導剣を見て素直に感心してみせるミナであるが、当のカインはそんな彼女の言葉で胸が強く射抜かれる思いだった。
 カインは母親が魔導に長けた家系だったため、生まれながらにして魔導の才能があった。だが、彼は最初から魔導剣を使えたわけではない。父親の跡を継ぐように地元の大工稼業の仕事をし、ティアと結婚した時は戦う術を持たないただの一般人だった。
 カインが剣術を覚えたのは、故郷のフィネスで軍属になった時だ。しかし、戦闘訓練を受けたものの戦闘に駆り出されることはなく、ただの国境警備兵にしか過ぎなかった。本格的に技術を身につけたのは、もっと後のこと。
 ティアを失ったカインは、復讐を果たすために力を欲した。フィネスの軍属の時に訓練所で読んだ魔導剣に関する書物を思い出し、独学で魔導剣を習得した。連盟へ亡命してきてROWに身を投じた後も、訓練に訓練を重ねた。最初は巧く扱えなかった魔導剣も、今では連盟随一と言われるまでに使いこなせている。
 つまり、カインの魔導剣は復讐のために培われたものであり、ティアの仇をとるための人殺しの手段でしかなかった。そんな忌むべき力で、妻に似るこの少女を救った。海の中で彼女を探した時も、夜の冷気から彼女を守る今も、魔導剣を応用することで可能だったことだ。
 ――これほど皮肉な話はないな。
 カインは苦笑した。
「さあ、服を乾かさないとな」
 カインは上着を脱いで、残しておいた組み木に乗せて火であぶる。
「どうした。君も早く服を乾かせよ」
 ミナがあまり火の傍まで近づかないので、カインは促すように言う。だが、当の彼女は耳まで赤面して俯いたまま動かない。その様子に、カインは自分の失態に気づく。目の前で若い男性が上着を脱いで、肌を晒している。田舎の村で、あまり人と接する機会のなかっただろう彼女に、この状況で平静でいろというのは酷な話だ。
 ミナが歯をガチガチと鳴らし始める。寒いから、という反応だけではないだろう。異性と二人きりという現状に対する怯えで震えているのだ。
 彼女は昨日も男二人に囲まれて野宿をしたわけだが、その時と今では状況が著しく異なる。いつでも逃げようと思えば逃げられる森の中とは違い、ここは逃げ場のない閉鎖空間。そして男のカインが裸体を晒し、ミナの服は海水で濡れて肌が透けて見える状態。貞操の危機を感じているのかもしれない。
「すまない、配慮が足りなかった」
 カインは自分の腰の二本の剣を手に取り、転がすように彼女の方へ放り投げた。そして炎を中心として、彼女とは対称の位置に陣取り背を向ける。
「俺も身体を冷やすわけにはいかないから、火の傍から離れられない。不安は消えないかもしれないが、どうか信じてほしい」
「カインさん……」
 か細い声の後、すすっと炎に近づいてくる音が聞こえる。まだ完全に怯えは消えていないかもしれないが、少しは信頼してくれたのだろうか。
「私、カインさんのことを誤解してました」
「誤解?」
 ミナのか細い声に、カインは首を少し向ける。
「その、冷たくて、恐い人だと思っていたんです。それに、私とはあまり視線を合わせないようにしていたし。もしかしたら嫌われてるんじゃないかって……」
 カインは、ふと不思議な気持ちになる。ルアルの森で出逢ってから、ずっとミナのことを避けていた。死んだ妻と瓜二つの容姿をしている彼女の顔を見るのがつらかった。別人とわかっていても、受け入れることが恐かった。
 それなのに、今はどうだろう。彼女が窮地に陥ってそれを救ったというアクシデントがあったものの、普通に会話できるし目を合わせても苦痛に感じない。そればかりか、心が柔らかくなるような気持ちにさえなってくる。
 ショートヘアだったティアとは違って、髪が肩口まで伸びているせいもあるのだろうか。仕草といい表情といい、今ははっきりと亡き妻とは異なる一面を認識できる。
「すまない。別に君を嫌ってたわけじゃないんだ。ただ、俺の妻にあまりに似てたから、つい……」
「奥さん、ですか?」
「あ」
 普段のカインは、あまり身の上の話を他人にはしない。ROW入隊時に志望動機を聞かれて仕方なく答え、各部隊の隊長クラスには知られていることであるが、他の同僚の隊員に過去を晒したことはない。それなのに、口を滑らせてしまった自分がいる。
「カインさん、ご結婚なさってたんですか?」
「あ、ああ……」
「その奥さんは、今はどうされてるんですか?」
 カインは少しだけ間を置いた。
「三年前に、殺されたんだ」
 ミナの息を呑む音がカインにも聞こえた。
「す、すみません! 立ち入ったことを聞いてしまって」
「いや、いいんだ」
 カインはミナに語る決意をする。
「この際だから聞いてもらえないだろうか?」
 外に出られない閉鎖した空間で若い男女が二人、火を灯しながら夜が明けるのを待たなければならない。そんな時に何も語らずにいるのは、逆にきついものがある。
 それがたとえ自分の過去の傷であろうと、語りたい気分になる。いや、相手がティアに似る少女だからこそ、語りたくなったのかもしれない。


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